山家清兵衛について


久々に歴史の人物について書こうと思う。このブログでは初めのとうこうとなります。

歴史を見ると民衆に良い政治や行いをしたからと言って必ずしも、良い終わりを迎えられるとは限らないと感じずにはいられない。

例えば、高橋是清も軍事を縮小しようとして暗殺されたり、大村益次郎も明治維新の立役者であるが暗殺されている。坂本龍馬や中岡慎太郎、佐久間象山などもそうである。今回の山家清兵衛もその一人である。上記の人物と比べればほとんど耳にすることのない人物であるが、宇和島のほうでは神となった人物である。

愛媛の宇和島は豊臣政権下時代、戸田勝隆が治めていた彼は母衣衆で武勇には優れていたが殺戮を平気で行う人物であった。その家来も民衆を強盗、殺戮を略奪を行っていた。その暴政のため田畑があれ民衆は疲弊しきっていた。戸田はその後朝鮮出兵となり病死にしたため、藤堂高虎が5年ほど善政をしき少し回復したものの、その後の富田信高が再び疲弊した。

その後伊達政宗の長子である秀宗が入部することになる。この時政宗は6万両というとんでもない金を秀宗に貸し与えている。この時の宇和島は疲弊しきっていたためそれを回復させるためにはかなりの決意がいった。そのため家老団も政宗が指名した。その中の家老団の中に山家清兵衛がいた。この当時珍しく理財の才があり民政家でもあった。政宗が「この清兵衛の言葉はわしの言葉と思え」といったほどの人物であったらしい。

彼は農民に対し飛び切り税率を安くし、領内を10組に分けて代官を置き、城下には奉行を置き、自治組織も充実させていった。財務、山林、海事、物産などの奉行をおいて仕事を分掌してその教育や訓練を行った。彼は官僚に民政の心構えを訓練した。その精神は明治まで民政官僚の源流となっている。

しかしその行動は筆頭家老である桜田玄蕃や侍頭の桑折左衛門の怒りに触れたらしい。

また、政宗から借りた6万両の返済も厳しかったため、財政は火の車であった。桜田はその6万両をもらえばいい意見したが、山家は「借りた金は返さなければいけない」といい「領民から搾り取れ」という意見も取り合わなかった。彼は農民に負担をかけさせることは一切なかったという。

その代わり士分に禄高別に税率をかけようとして大反発を受け暗殺されてしまう。

その残忍さは彼の子ども3人も殺されている。そのうちの一人は井戸につるされつるし斬りされていたほどである。

彼の死後12年後秀宗は清兵衛を神として奉ろうと京都から奉幣使をわざわざ呼んで正規の神社として一社たてたらしい。

彼の行政をやった時期は6年ほどであった。その治績でいまなお神として(和霊神社)市中だけでなく宇和島で崇拝されているらしい。日本史上民政家で山家清兵衛ほど深く尊崇されている例は少ない。

このようにいい行いをしたからと言って、その人にとってよい結末を迎えるとは限らない。結果的には評価されたとしても一家は殺され、絶えている。人生というのは怖くもあり、面白くもあり、まったく先のわからないものだ。

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